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report|樋口泰人 × 遠藤麻衣子 対談録

人機のコラボがひらく映画表現の地平



© 3 EYES FILMS, JST ERATO 稲見自在化身体プロジェクト Photo by NOJYO




樋口泰人(以下、樋口)この映画をご覧になって、皆さんはいろんな感想をお持ちになったと思います。映画に出てくる機械は何なのか? 機械は本当の研究対象なのか?この映画はそれを映したドキュメンタリーなのか?など、様々な疑問が残るのではないでしょうか。俺自身も「何なんだこれは?」から始まった。でも、21_21 DESIGN SIGHTの「未来のかけら」展を見て、この研究がテクノロジーからいかに身体や神経に接近していくのかの研究であり、その先をどう見つめていくかの研究であることもわかった。ここに映っているテクノロジーは、機械的な情報の伝達と、人間の身体的な情報の伝達の関係が大きな主題になっていることが見えたんです。


機械の側から人間の側に飛ぶ研究からのアプローチを、遠藤麻衣子さんが受け取って、その触手と握手をした。そんなかたちでこの映画ができたのかな、と。すると、機械の側からは予想も計算もできない人間の反応から何かが見えてくるという回路が見えた。だからここには完成や目標の到達点はなくて、人間というあやふやな存在による結果とその不完全さがある。自身がコントロールできないものに科学が身を投じているその一つの表れが、この映画なのではないかという感想を持ちました。



アウトリーチのオファーを受けて



樋口ところで遠藤さん、この映画はどのようにして始まったのですか?


遠藤麻衣子(以下、遠藤)前作の《空》という作品のあとで、小笠原諸島に1ヶ月、リサーチで滞在していたんです。そのときに、知人から「遠藤さんと話したがっている人がいる」と連絡があった。聞いてみるとそれは稲見自在化身体プロジェクトのアウトリーチを担当する方からで、5年の研究プロジェクトの最終年に、一般の人に向けた映画をつくってほしいというものでした。その方は私の『TOKYO TELEPATH 2020』をご覧になっていて、「面白いことができそうだから、さっそく来月からリサーチに行きませんか?」とのお話でした。そして、一緒に6つの研究機関の全てをリサーチして見せていただいた。で、映画については、ドキュメンタリーもつくれるけれど、やはりいつもの自分のやり方でつくろうと決めました。実際の機械を使いつつ、想像の世界も入れて創造的なかたちにできればいいかな、と思ったんです。


樋口映画の中で、少女が踊るようにして動かしていた機械の手は、彼女の動きを記憶して、次に着けた人の身体にその情報を与えるという理解でいいのでしょうか?


遠藤そうです。三つ目小僧と一体化しているロボットが、それと対になっていて、他の研究室にいる少女のロボットの手の動きが三つ目小僧のロボットに反映される仕組みです。



樋口機械の記憶したものと、その記憶を実際に活用するもう一つの場所が違っていて、時間も変えられる。つまり、離れた時間と空間を機械の記憶がつないでいる。人間の記憶と機械の記憶というものすごくオカルティックなところにテクノロジーが迫っているその不思議さが、面白いですね。遠藤さんの過去の作品も、月の信号を受け取る人が出てきたり、『TOKYO TELEPATH 2020』はタイトルからしてテレパスですが、全く別のところで何かを受けとる。遠藤さんに今回依頼した方の映画を見る視線が素晴しくて、まさにぴったりの人にお願いしたんじゃないかと思いました。ご自身もそう思ったのでは?


遠藤いや、全く反対で、私はアウトリーチに向いていないと思った。なぜなら分かりやすく説明するようなプレゼンテーションをしないので。でも、稲見先生も、製作中何も言わずに、全て私にクリエイティブのフリーダムを与えてくださいました。すごくありがたかったです。


三つ目を通して交信する視線



樋口遠藤さんの作品にはいつも「交信」、つまり遠く離れたものをつなぐというテーマがある。そして、記憶でも伝達でも、間違った伝達のされ方もすれば誤配もあって、伝えようとした意思と関係なくものが伝わっていくわけですが、そこも配慮しながら作品をつくっているように思える。遠藤さんはその「交信」、例えば過去の記憶や未来へのメッセージの交信を扱うにあたって、どんなことを考えて物語や作品にアプローチしていますか?


遠藤皆さんもそうだと思うんですけど、毎日生活をしていて、時々何か忘れられないものや、パッとくるビジョンがありますよね? 私の場合は、結局、そういうのが作品の核になる。だから自分で選べない感があるんですけど、いつもずっと映画をつくることを考えているので、そのうちにいろんなものがシュルシュルシュルと回転し出して、いつの間にか「ここのこれに以前のビジョンが実現できる!」となるんです。今回に関しては、もともと次につくりたい長編があって、その一つのシーンがロボットと子供たちがいるもの。「ここにつながる!」と思ってこの短編にした感じです。実は、今回の三つ目小僧の役の子は、もう何年も前からその長編の中の三つ目小僧役にしようと決めていた子でした。


樋口研究の機械を見て重なると思ったのですか?


遠藤そう。その長編には三つ目小僧が出てくるシーンがあるんです。三つ目のロボットを見たときに、「合う!」と思った。


樋口今回の作品の中で少年が着けている三つ目のメガネは、この映画のためにつくった物ですか?



遠藤はい。あれは研究の実機ではなくて、この映画のために、東京大学の山中俊治先生にデザインしていただきました。山中先生はデザイン・エンジニアなので、どんな機能性があるのかを話し合いながらデザインされていました。


樋口あの機械の三つ目と少年がつけている三つ目のメガネは、遠藤さんの中でどうつながっているのですか?


遠藤あの三つ目のメガネを通して、三つ目小僧には機械のビジョンが見えています。つまり他の空間とつながっているんです。三つ目のロボットの視線は離れた研究室にあって、ロボットの右目と左目の視野は、別の2人がゴーグルを着けて見ている視野です。リサーチで初めてそのゴーグルをかけて私がびっくりしたのは、後ろにいる三つ目のロボットの視線が自分でも見えることでした。自分がゴーグルをつけたら自分が見えるわけです。

 樋口三つ目の機械が見ている自分が見える?

 遠藤そう。だからある意味一種の幽体離脱というか。自分が外から見えるというのがすごい違和感で、そうやって自分を見たことがないから面白かった。


樋口その感覚って、慣れるものですか?


遠藤多分、ずっとそれをやってると慣れるんだと思います。


樋口慣れてくるとあの少年みたいに、慣れた上での別の集中力が出てくる?


遠藤稲見先生はよく歩きスマホを例にしています。最初はできなかったけれど、スキルが養われると誰もが軽々とできるようになる。だから、毎日やってれば自分の一部になると思います。



身体の未来と精神の変容



樋口人間の身体が訓練や習慣でいくらでも変わる可能性があるということは、言ってしまえば「何にでもなれる」という奇妙な希望のようなものが見えてくる。その意味で言うと、この映画には色々な目がありますよね。例えば、色々なカメラで撮られた映像や、機械の目で撮られた映像、少年が三番目の目で写した映像など。それらは誰のものでもない視点に見えるけれど、一人の人がそれだけの視点や視野を得ることも可能になるということでしょうか。自分の身体についている二つの目だけではなくて、他人の目で見た世界やカメラが捉えた世界など、色々な目で捉えた視点や視野が人間の身体に入って、一つの世界をつくり始めると。確かに、そういうことを夢見ている映画にも見えます。遠藤さんは、この映画をつくりながら、そのような身体の未来に対して何か考えたりしましたか?




遠藤身体の未来…どうかな…。ただ、今研究がしていることは、いずれどんどん導入されていくと思います。研究では、例えば合体や分身の技術も研究されていて、みんなで同じ一つのロボットやアバタを動かしたり、一人で五体ぐらいのアバタを動かしたりしている。でも、その技術が導入されると、我が強い人が誰かと一緒に操作するのは大変なんじゃないかとか、身体から入った技術が精神にも入って、それなりの新しいバランス感ができていくんじゃないかとか思う。自分一人の身体でやっちゃったほうが早いことを、こういう技術を使うことで、一人の人間を超える優れたポイントができるのではないかと思います。そのときに、人間がどこまでテクノロジーを許容するのかや、着ける着けないをいかに心地よくやるのかが問題になるかもしれない。21_21 DESIGN SIGHTのトークで、「宇宙に行くときにどんな身体でいたいか?」という問いに対して三つ目小僧役の子が「身体なんか要らない」と言ったという話になったけれど、結局そうなのかもな、という気もします。


樋口俺の場合は、不自由な自分の身体というのも、ものすごく愛おしいと最近感じています。その意味ではこの映画を見て、「身体なんか要らない」というふうには見えなかった。人間の身体の不自由さとか身動きとれなさというのが、さらにまた次の新しい動きになっていくという気がしていて、この映画でもそれが面白いと思った。例えば今、レコードが流行ってきているけれど、昔のレコードと今のレコードを聴き比べたときに、今のレコードはMIXや録音も素晴らしくて音の再現も細部までなされるけれど、昔の不自由なテクノロジーでつくった音の、当時の技術ではもうこれ以上行けない限界のところで右往左往しているその音の揺れ方が面白い。今のレコードの音は、思うようにできてしまうけれど、その限界にいかないと音は面白くならないんじゃないかという気がするんです。


でも、この映画で見せているのは、今実験されているロボット、つまり最新のテクノロジーでもうまくいかない部分へのアプローチだと思った。絶対に完成しない、いつまでも完成しない、常にこのような状態としてある、それが素晴らしいというか…。装置を着けたシーンを見ると、機械に頼らずにやっちゃった方が早いようにも見える不自由さがあって、そのもどかしい感じが永遠に続くであろうという時間の果てしなさを感じる気がして面白かった。ところで、音に関して言うと、映画の中で、人間なのか動物なのかわからない唸ってるような声がありましたよね。あの音は研究とは関係なく遠藤さんが入れた音ですか? なぜあの音を入れたの?


遠藤それはただ、あの少女があの声でふざけるのが好きで、いつもあの声でふざけていて、宇宙で聞こえたらいいかもしれないと思ったから使いました。私の作品ではいつも、出演者の持っているものを引き出して使っています。


樋口俺の妄想としては…。

遠藤(笑)だからあまり話しすぎるとその妄想が崩れてしまう…。


樋口(笑)俺の妄想ではね、三つ目の少年があの声を聞いて、元々少女のものだった声を自分も出している。それで森の中の少年も、石を耳に当ててその声を聞いて、やはり自分でもその声を出していて、それが少女に戻る。気がつくと自分が出した声がいろんな回路を回ってそれをまた自分が聞いて反応するという、不思議な神経回路の全体を見ているというか聞いているような気がしたんです。


遠藤それは素晴らしい!(笑)。でも機械を着けてずっと作業をしていると、自分の声がこの辺(首の後ろ)にきて、他人の声もその辺から自分の中に入ってくる感覚がある。未来の子供たちは本当に自然に、スイッチのON/OFFを分け隔てなく、というかスイッチもないような感じでそれができるようになっていくという気がします。この映画の撮影でも、子どもたちはいろんな研究の技術をものすごく自然に、フラットに使っていて、ただふざけたりもしていました。



構想中の長編で描く未知の視点



樋口 ところで森の中の少年が着けていた腕の機械は、実際に研究されたものですか?


遠藤そう、あれも研究者がつくったもので「鱗」と呼ばれていました。離れたところの二人が着けると感覚を伝送できて、プログラミングで感じさせることもできるんです。その研究者に、「例えばジャングルで使われたらどうなりますかね?」と訊いたら、「危ない動物が出てくる前に鱗が立って伝えるというような使い方があるかもしれない」と言っていました。


樋口森やジャングルのシーンというのも、長編にあるんでしょうか?



遠藤いや、ないです。


樋口では、長編には、今回のように色々な空間の視点が交換し合って一つの像になるようなイメージはありますか?


遠藤うーん…。長編は七年前からずっと考えている大きな映画で、でもその映画が持っている未来像に対して今回の映画がこっちの未来もあるというのをすごく見せてくれたので、未来の見え方が全然変わってきました。特に身体とか物とかの未来の見え方です…。だから、出会うべくして出会った映画だったなと思っています。


樋口次の作品の予定は決まってますか?



遠藤いや、まだです。軽く五年はかかるかと…。


樋口その映画の大きな筋は?


遠藤秘密です。


樋口人間の身体や精神、記憶も含めて、遠藤さんの映画の中でどうなっていくのかにすごく興味があります。映画というのは、ある第三者的な視点で物語を映すのが基本にあって、それで世界が説明できるということになっているけれど。


遠藤今回の自在化身体プロジェクトについて言うと、結局身体の話なので、大事なのは感覚なんですよね。その感覚を映像化するときに、説明してもそれは得られない。だからその感覚にちょっとでも通じる映画をつくりたかった。


樋口そのときカメラがどういうポジションにいくのかに、俺は興味がある。前作の《空》は、カメラの役割、ポジションが日々の撮影の中で違っていったと思うけれど、今回の映画は、複数の視点が最終的には一つの世界をつくり上げる。でもそれが誰の視点なのかわからないというのが、この映画の面白いところだと思った。次の映画にどんな視点が表れるのかすごく楽しみです。




遠藤今の言葉は、本当になるほどな、と思います。次の映画でそこを自分がどうやるかを、もう一度考えたいと思います。


 


会場とのセッション



樋口では、ここからは、会場のみなさんもぜひ質問していただけたらと思います。


Q1少年は何時間ぐらいロボットを着けていたんでしょうか。


遠藤リハーサルでは本番の1〜2週間前に、学校が終わったら毎日東大に通って、研究者と一緒に行っていました。


Q2映画の中の少年はロボットとどういう付き合い方をしているという設定ですか?


遠藤少年は3〜4年ぐらいロボットと一緒にいて、ロボットはちょっとずつ改良されているという設定です。




樋口人間があれを着けて生活していくと、最終的にどうなるんですかね?


遠藤三つ目のロボットが背後にいて、少年のメガネからはロボットの視線で自分が見えて、その自分がものを作っている。自分がロボットを見ると、ロボットを見ている自分が見える…。そういうのをずっとやっていったら、心の境目がなくなっていくのではないでしょうか? ただ、今のロボットは物質感があるから一緒にはなりにくいけど、未来のロボットは柔らかくて心地良くなるかもしれないので境目がよりなくなるかも。


Q3監督が研究を見て映画を撮ったあと、身体拡張ロボットに「こういうのがあるといい」と思うものは何か出てきましたか?


遠藤自分のこの辺(頭の少し後ろ)にある声って、みなさんにもあると思うけれど、そんなインターナルで自分にしかわからない自分、自分の中の自分がロボット化されたらやばいと思う。その自分は、自分の一番の友達で、一番の敵なわけで…これが何かわからないけれど…。


樋口何となく外側にいる自分?無意識とも違うんでしょうか?


遠藤もしかしたら身体の中にも別の自分がいるのかもしれなくて、気づかないだけなのかも。でもこのへん(頭の少し後ろ)で考えて想像して、このトークを見ながら全然違うことを考えて飛んでいる自分がそれがロボット化されたらいいと思う。


樋口でもそれは、遠藤さんの映画のカメラに近いのでは?自分の視線が現実世界を見ている視線だけではなくて、ここら辺にもそこら辺にも視線があって、それが実体化するのが遠藤さんの映画じゃないですか?


遠藤その傾向はありますね。


樋口だから今後の長編を見たりこれまでの作品を見直したりして、へんなアングルからへんな動きをする映像があったとしたら、遠藤さんのその何かが実体化した映像だと考えながら見ると、遠藤さんの身体が拡張していると同時に見ている自分の身体も拡張している見え方がするんじゃないかと思う。


遠藤人間は、違う空間や時間で生きるのに向いていると思う。なぜなら、今ここにいても全然違うことを考えたり、違うところにいる人を思ったりできるから。そこがちゃんとできる技術ができると、すごいミラクルが起こる。


Q4ロボットのように外部化されている技術と、AIのように外部化されていない技術があります。外部化されていない技術の表現や、人間の外部と内部を意識できなくなるこれからの時代の表現について、何かお考えはありますか?


遠藤本当にその点は大事で、だからこそ次の長編をどういうシステムでどうやって見せるかという問いがすごくあります。映像でできる表現はすごく限られているので、やっぱりすごく難しい。第四の壁とか三次元を壊すとか、多くの監督がやろうとしているけれどできていない。そこをどう突き抜けるのか。その魔力とは何なのか。時間や空間が飛ぶ感覚が得られる映画を見ると本当に良かったと思うけれど、それが飛びっぱなしになると危険かなとも思う。将来、映像が直接脳にインプットされるとどうなのか…?


樋口映画には映画館があるので余計に厄介ですよね。映画館で上映されるものをつくるという点で、限界がある。だから、この四角い枠の中で何ができるのかの可能性に賭ける方向と、枠を飛び越えて何かを始める方向の二つの可能性が出てくると思う。でも、枠をはみ出しちゃうと誰も想像がつかないところに行くので、具体的に出てきた時に反応するしかないのでしょうね。ゴダールの3D作品を思い出しましたが、あの作品では3Dのシステムは使ったけれど、右目と左目が見ているものが違うんです。右目で見る映像は飛び出すけれど、左目で見る映像は飛び出さない。ガチャガチャにして、映画を見ることを壊した上で何が生まれるか、という作品だった。そう考えると表現の可能性は無限にある。


遠藤つくる人が全身で「行くんだ!」と言って「ぐるん」といけたら、見ている人も行けるんだと思う。でも、それをストーリーでつくる人もいて、そういうストーリーに長けている人はすごいなと思う。


Q5そのようにストーリーで長けている監督は誰ですか?


遠藤エドワード・ヤンとかも、あれだけの時間を使ってお話をつくってそのダイナミックさの中で、ものすごい普遍的なところに行き着く。見た人にその普遍が残るのは、「ぐるん」といっていると思うし、そういう映画は残ると思う。


樋口一回転した挙句に出てくる普遍ですか…。「普遍」というとわれわれは「その後の基準になるような一定の形を持ったもの」と考えがちですが、そうではなく未来に向けての「普遍」、新しい現在を生き続けているもの、ということで考えると、エドワード・ヤンの映画はすごくしっくりくるように思えます。一方で、今日の話で言うと、『デジャヴ』(2006年の映画)のような、片目で現在を見て片目で過去を見るといった人間の身体性を拡張するようなアクションが可能になっていくと、面白いことになると思う。そういう目で色々な監督がつくった過去の映像を見直すと、未来につながる映像がたくさん転がっているかもしれません。


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